時計の針が二十時を回って少し。ようやく帰れる。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。年末に急な出勤をお願いして悪かったね。それじゃあまた正月明けに。良いお年を」 「はい、良いお年を」外出用の姿の私は、店長に作り笑顔を浮かべて女子更衣室へ向かう。言っておくが、これは不可抗力であって仕方の無いことだ。
幸い私以外に誰もいない……こともなかった。小泉さん(二十四歳)が化粧を直しながら電話をしている。
おかしいな。こいつが仕事に来ないっていうから、年末最終日に突然呼び出されたってのに、どういうことだ?
私は小さな会釈に最大限の威嚇を込めて彼女の前を通りすぎ、自分の名前が貼られた冷たいロッカーに手をかけた。
内側に付けられた小さな鏡に写るのは、小綺麗な大人の女性。私の実年齢は四十代だが、外出用の姿は三十代かギリギリ二十代に見えるよう調整してある。
この世界では資格や働けると思わせる見た目よりも、年齢はさておきワンチャン有りだよなとキモい男性社員に思わせることが大事なのだという。
なぜなら私は見習い魔女。
四十を過ぎているのにいっぱしの魔女として食っていくには程遠い稼ぎなのだから、それくらいの気持ちでいなければいけないらしい。
育ててくれた母であり大魔女の、それはそれはありがたい助言により採用された小さな薬局を出て空を見上げた。
白く薄い吐息が背に流れ、微かに漂う出店の香りが財布の紐を緩ませるも、数枚の薄汚れた茶色い小銭が涙を誘う。
とかくこの世界は金がかかる。この世界に魔力さえ豊富ならこんな苦労などしなくて済んだだろうに。
私をこの世界に放り込んだ張本人は間違いなく分かっていたはずだ。親父との時間を邪魔されたくなくて、こんな世界に飛ばしたのだ。
大木の生えた人気のない公園に寄り道をして、鬱蒼とした森の側にある自宅へ帰るとすぐに変身を解いて元の姿になった。
ただいまの返事も聞かずに自室へ入りベッドに倒れ込む私……いや、俺。
姿を変えている間は思考の一人称も見た目に合わせているのだ。だから今の、親父たち譲りのあどけない少年の雰囲気を残し、透き通る緑髪を持ったこの世界では無駄に超イケメンな本当の姿の時は”俺”だ。
超イケメンならすべての不幸が帳消しになると思う人もいるだろうが、それはとんでもない勘違いだ。
まず本当の姿だと人間の友達ができない。俺の性格が悪いわけじゃない。中学の半ばを過ぎると皆、俺とエロいことをしたいと、そういう邪な心で接してくるんだ。老若男女問わずな。それに痴話喧嘩のとばっちりも多いし、ゲイもののAVのスカウトも半端ない。
さらにちょっとでも立場が上の奴らは、たいてい俺を陥れておきながらいけしゃあしゃあと、えげつない色事を条件に俺の救済を提案してきやがる。
あと、何故かやたらとゴキブリにモテる。
とある神様と神様が下界でダラダラする漫画で、イケメンは呪われた顔面だと表現されていたが、まさにい言い得て妙……。
ま、そういうこともあって高校を卒業してから外出するときはほとんど変身している。
ホント、この世界は魔力がほぼ無いし、金はかかるし顔面偏差値が低すぎるし苦労が多すぎる。
「あの野郎……」
仕事の怒りとあの緑色のちんちくりんの姿を重ねて、俺は目をつぶった。
あれは俺が十歳を迎えた誕生日。
「あのねパパ。ぼくね、本物の魔女になりたいんだ」
「そうかそうか。でも吸血樹鬼が本物の魔女になるには大変だぞ」 「大丈夫だよ。だってぼくはパパたちの息子だからね」そう、得意気に笑ってしまったのが運の尽き。
「じゃあ急いで異世界に行かなくちゃだね。一人前になりゅまで帰ってきちゃいけないんだよ。修行、頑張ってね」
親父の膝に乗る俺を恨めしそうに見ていた緑色のちんちくりんが、パアッと笑顔になったかと思うと、禁忌とされる世界を渡る転移魔法を発動させた。
「え?」
結果、俺はなんの準備をすることもなく、あっという間に異世界の日本とかいう国へ放り込まれたのだ。転移するギリギリに親父が投げてくれた袋以外は、本当に着の身着のままってやつだった。
後から知ったことだが、その日の日本は昭和とかいう時代の何十回目かの始まりを祝う日の早朝で、俺は帰らずの森と呼ばれる禁足地の入口ので呆然としていたらしい。
あれから色々あったけど、不滅の親父が言っていたとおり時間というものは信じられない速度で駆け抜けていくもので、俺はたった今四十六歳になった。
「は、はは……まさかこんなに長くお世話になるとは思わなかったよ」
零時前に自室からリビングに呼び出され、時計の秒針が翌日を告げると同時に出されたのは、四十六本の蝋燭が綺麗に並べられた真っ白なケーキ。それはテーブルの真ん中にどっしり置かれ、ささっとお猪口が三つ配られると、辛口の日本酒が並々注がれていった。
「お誕生日おめでとう、みどりちゃん」
「まあ、これから世話になるのはワシらの方かもしらんがの」この世界での両親、竜胆紫と勝蔵夫婦だ。
「確かに……父さんは随分老けたよな」
俺を拾って養い育ててくれた両親も今や世間的には年金暮らしの八十代。たまに遊びに来る孫たちを生き甲斐にしているどこにでもいる老人だろう。
「みどりちゃんはあんまり変わらないわよね。ずっと可愛いしカッコいいなんて羨ましいわぁ」
頬に手を当てて少し首を傾けている母の言うとおり、俺の外見は当時からあまり変わっていない。
俺の場合、この世界では漫画やゲームなどでしか見かけないエルフとかよりも遥かに長命種なのだから当たり前。|吸血樹鬼《アルボルヴァンパイア》という種族だ。まあ言ってる母も母で大魔女だ。真の姿は俺とさして変わりない。
ちなみに|吸血樹鬼《アルボルヴァンパイア》はただの吸血鬼ではない。
似たようなもんではあるが、俺が毎晩啜るのは美女の生き血ではなく樹液。美しい樹木に甘い言葉を囁き誘惑し、その艶かしい樹皮に牙をたてるのだ。
夏はカブトムシやカナブンがハイエナの如く寄ってくるから迷惑している。
「いつまでたっても子供っぽいってだけだよ。不便の方が多い」
「変わらんものがあるのも悪くない。ほれ、お前の分だ」勝手に蝋燭を吹き消してケーキを切り分け始めていた父が手を止めて口を開いた。そして7号のホールケーキからおよそ二人分を除いた残りがズイッと差し出される。
「……多くない? ていうかなんで7号サイズなの?」
「あら、だって小さいと蝋燭並べるのが大変でしょ?」母は何を言ってるんだと言わんばかりに俺を見てから、ケーキの苺にフォークを刺した。
俺は母と違って苺から食べようか生クリームから食べようかいつも迷う。そうこうしているうちに、二階から降りてくる足音が二つ聞こえてきた。ペタペタとポフポフといった嫌な予感を含む足音。
ドアの開く気配に振り向くと、執事服を着た青紫の木で作られた小さなペンギンとダークグリーンのローブが入ってきた。
「ええ~? 今から?」
急いでケーキを頬張って”今は無理感”を演出してみる。
「万年見習いがお情けで頂くありがた~いお仕事なんですよ。時と場所なんて選べるわけありませんよね?」
そう言ってテーブルに飛び乗ったペンギンが目を細める。ローブもドアの横でポフポフと音を出して肯定していやがる。
「みどりちゃん、行ってらっしゃい。ケーキは冷蔵庫にいれておくから」
母がラップを手に微笑む。少し怖い。
「はぁ、せっかくの誕生日祝いくらいゆっくりさせて欲しいもんだね。昼間の仕事もいきなり呼び出されたんだしさ」
愚痴はすべてに無視され虚空へ消えていく。でも俺はいい大人だからそんなの気にならないもんね。愚痴を言い続けてやる。
とはいっても行かないわけにはいかない。しかたなく外出用の姿に変身してダークグリーンのローブに腕を通す。するとペンギンは定位置でもある俺の肩に乗ってきた。
「それじゃあ行ってくるよ。日が昇る迄には帰ると思うから」
それから俺は両親に戸締まりを注意して、すすきを束ねて作った箒を持ち外に出た。見習いの箒はすすきと決まっているのだ。
「行ってらっしゃい」
「お土産宜しくな」両親の声を背に、俺は年が明けて間もない満月の空に飛び立った。
満月を見上げながら、つい欠伸がでてしまった。 すると肩に乗っている青紫のペンギンが大袈裟に嘆いてみせる。「はぁ、情けない」 こんなのはいつものことだから俺は気にしない。 この執事気取りのペンギンはシラー・ペルビアナ。親父が投げてくれた袋に入っていた人形だ。きっと相当ヤバい人形に違いないんだけど、その片鱗を見たことはまだない。「仕方がないだろ。昼間にも働いてるんだ」 「じゃあ、せめて見習いは卒業して生活費を稼げる魔女になって下さい。そしたら昼間は働かなくていいでしょう?」 「……それができれば困ってないっての」 この世界の魔女は通常夜に働く。なぜなら妖力という真っ黒な力を使うからだ。 妖力は魔力と違って色んな属性がごちゃごちゃに混ざり合っているだけでなく、俺にとって未だ理解不能な夜の力が根源となっている。反対に昼の力を根源としている真っ白い力を霊力と呼ぶ。 悲しいことにどちらの力も俺には扱えない。 俺は妖力や霊力と違って、この世界に微々たる量しか存在しない魔力をかき集めてなんとかやりくりしているのだ。 そのため三十五年――いや、めでたく見習い三十六年目に突入した俺が使用できる魔法は、簡単な占いに限定的な召喚魔法と動物と話す魔法くらいだ。 覚えた魔法よりもよっぽど強力な種族的な能力も多々あるけど、やっぱり魔力が足りなくて思うようにいかない。 まったくなんだってこんな……いや、愚痴は止めよう。辛くなる。仕事のことを考えよう仕事の……あ。「シラー、今日はどこまで行くんだ?」 そういえば行き先を聞いていなかった。重大な問題だ。見習い魔女が遅刻など許されることではない。「さっきからずっと男口調になってますよ。今は魔女なんですから気を付けて下さい。そのぶんじゃ頭の中も”俺”なんでしょうね」 「分かってるよ。ええと、それで? どこに行くのかしら?」 周りに魔女や関係者がいるわけじゃないんだから別にいいのに。まあ、母にも自分以外の魔女に”私”が男だとバレないようにと忠告されているから? シラーの言うとおりにしやってもいいけど?「旧水底駅ですよ」 ぶっきらぼうに答えるシラーに目をやると寒そうにしていたので懐に入れてやる。少しだけ嬉しそうな顔をした気がしないでもない。『嫌だなぁ。旧水底駅は水溜まりのずっ~と底でしょ? ちゃんと行けんの?』
忙しい。目が回る忙しさとはまさにこのこと。私は次々と押し寄せるお客様のお相手に死に物狂いで手と目と頭を働かせている。 「も、申し訳ありません」 遅いと言われても……でもちょっと待って。お願い、今やってるから、考えてるから、計算してるから! 既に頭は焼ききれそうなのに、こんなので最後までもつのだろうか。うぅ、計算が得意とか言うんじゃなかった。 遡ること一時間―― 私たちは旧水底駅に着いたはいいけれど、思ったとおりびしょ濡れになってしまった。居心地が悪くなったのだろう、シラーが胸から飛び出して肩に戻る。 見た感じ、田舎の方にある普通のJRR駅と同じ作りをした旧水底駅。違和感といえば駅の線路に溢れるまでお客がごった返していることと、そお客が人間ではないこと。 普通に生活していれば、この世界で人間以外の人間っぽい種族に出会うことはあまりない。まあ私は常日頃から見ているけど。「しっかし、轢かれても文句言えないなあれ」「白緑、口調」 お客の波に呑み込まれないように関係者用の出入口へ向かう。一応入る前に軽く髪の毛を絞っていると、ベリーもずぶ濡れを嫌って全身を捻り自らを脱水し始めた。そんなもんだから、捻りに巻き決まれた私の二の腕部分がつねられたようになってしまった。「早かったですね」 どこかに監視カメラでも付いていたのだろうか。ベリーに文句を言っていると出入口のドアからJRRの制服を着たお兄さんが出てきた。 どうしたことだろう、私たち以上にずぶ濡れじゃないか。シャツが透け透けだ。 でもまずは笑顔と挨拶。外国でパン屋を間借りしてお届け物屋をしている、かの先輩魔女も言っていたではないか。『笑顔よ、第一印象を良くしなきゃ』と。「この度は見習い魔女にもかかわらず――」「ああ、そういうのはいいです竜胆さん。僕は駅長の上原です。取りあえず中へ」 はぅぅ。まさかの大撃沈だわ。先輩のような警察沙汰の大失敗はしなかったけれど、まあまあイケメンのお兄さんに冷たくされて私の自尊心はズタズタ。ああ、なんてこともう働く気力が起きないわ。よよよ……。「おい、勝手に人の心気持ちを捏造するんじゃない」 上原さんに聞こえないよう、ふざけるベリーに抗議する。『別にいいじゃんか~』「白緑、口調を」 まったくベリーめ。貴重な魔力の無駄遣いをしやがって。ほぼゼロとはいえ、お前
旧水底駅から帰宅すると、ずっと退屈していたシラーとベリーは森へ遊びに行ってしまった。けれど、私は眠たすぎて即バタン。目が覚めると夕方の五時だった。 枕元に置かれた、母の字で書かれたお疲れ様と父の字で書かれた頑張れが泣ける小さな二つの封筒が目に入る。 感謝の祈りを捧げ、私から俺に戻りシャワーを浴びて色々な物を洗い流す。両親は出かけているようで、家の中は薄暗い。 自室に戻る途中、少し寄り道をした。玄関にだ。首からタオルをかけてパンツ一丁のまま姿見の前に立つ。「ふっ……」 いくつかポーズを取ってみたら自然と笑みがこぼれた。「ふんふふ~ん♪」 鼻歌を歌いながら自室へ戻り、ベッドにどかっと腰を下ろす。そして、そうでもない上原さんにもらった紙袋を手繰り寄せた。 お待ちかねのギャラ確認。 ギャ~ラ確認、あそ~れギャ~ラ確認っと。妙なテンションなのは睡眠時間が短いからだろう。 俺はそのまま頭の中でギャラ音頭を奏でつつ紙袋に手を入れた。「え~っと、これは……」 まず取り出したのはJRRのロゴが入った金属の箱。その下には……おお!!「新年水溜まり弁当だ! しかも三つも!」 そういえば父にお土産を頼まれていたのに、すっかり忘れていた。冷蔵庫に入れていなかったが、今は真冬だし部屋に暖房もつけてなかったから問題あるまい。お土産はこれに決定だ。 たぶんこの弁当が上原さんの言っていた”色”の部分だろう。「てことはこっちが……は?」 先に取り出した金属の箱を開けると、透明な小瓶が二つとやたら綺麗などんぐりが十個。 思わず天を仰ぐ。天井に止まっていたてんとう虫が飛んでいくのが見えた。ギャラ音頭もピタリと止まる。 なんだこれ。俺、リスかなんかだと思われてる? なんて冗談を挟んで心を落ち着かせる。もう一回、箱を閉じて開けてもやはりそこにあるのは小瓶とどんぐりだった。「これだもんなぁ。現物支給は止めてくれって魔女協会経由でお願いしてるのに」 もちろんただの小瓶ではないし、どんぐりもそれなりの価値がある。 小瓶は草原の夜風と大空の春風を閉じ込めたものだし、どんぐりは甘酸っぱい妖力の蜜が見た目の百倍は詰まっている。こっち関係のお店で買うとなると小瓶は一つ八千円で、どんぐりは一つ千三百円くらいだろう。 ただし、魔女や業界関係者に特別需要があるのかというと
チクタクと時計の音が部屋に響く。 両親の帰りを待ち続けること六時間。正月特番にも飽き、森から戻ったシラーとベリーとの会話も尽き、こたつで一眠りも二眠りもしたが、両親はまだ帰らない。「これは仕事っぽいな……」『お腹空きましたね』『空腹~空腹だ~』 自分も正月早々、仕事だったけど両親もそうだったとは。こたつから出たくなかったので、ベリーに伸びてもらい冷蔵庫から食べ物を取ってもらう。「とりあえずこれ食べよう」 俺、シラー、ベリーで仲良く父のおつまみを盗み食いし、うるさい腹を少し黙らせる。新年水溜まり弁当じゃないのは、あれは両親と一緒に食べたいからだ。「それにしても、結局お金は用意できなかったな。半分はお年玉で賄えるけど、あと半分か……」 再びごろりと横になって考える。「どうするんですか? サバトは明日でしたよね」 シラーは魔女大の同期会をサバトと呼ぶ。意味的には間違ってないけど、ちょっと仰々しい。 それと、大人が新年の集まりに参加するお金も用意できなんてといった視線が喧しい。『ええ~? 僕、美味しいもの食べるの楽しみにしてるんだよ』 ベリーは欠席なんて許さないといった雰囲気で肩を揺さぶってくる。「あ~、もう久し振りにあれをやるしかないかなぁ……」「それも一つの手段ですね」『今から? 大丈夫なの? まあ僕は明日の会に参加できるならなんでもいいけど』 ベリーの言う危険もはらんでいるが、お金がないのだから仕方がない。俺はスマホに手をかけ、白と緑のアイコンをタッチしてララインを開いた。「あ、あの、もしもし? お久し振りです――」 ◇ 時計の針が真夜中を回った頃、俺は”俺”のままで最寄りのコンビニの駐車場に突っ立っていた。一応、髪の毛と目の色だけは日本人にあわせてある。 ベリーには顔がすっぽり隠れるくらいのコートになってもらい、防寒と余計な虫除けもしてもらう。 このどんな服にでもなれるベリーの能力には大いに助けられている。インナー類以外の服を買わなくていいからだ。汚くはない。ベリーも毎日お風呂に入ってるからな。「遅くなってごめん。寒かったでしょ」 斜め横に止まった車から、スラッとしているのにどこかくたびれた感じのする、モブ顔のおじさんが降りてきた。俺を見て申し訳なさそうな、それでいて心底嬉しそうな笑顔を見せる。「いえ、そんなに
どうしよう。 このままラブホテルであんなことや、こんなことをされてしまうんだろうか。『別にいいじゃないですか、尻穴の一つや二つ……』 『俺には一つしかないんだよ!』 『慣れると気持ちいいって話ですよ~』 『そういう問題じゃない!』 焦る俺と違って、シラーとベリーは満腹に脳ミソをやられちまったらしい。この状況を受け入れるなんて断固拒否だ。俺は美樹木の化身と結婚するって決めてるんだ。『あ~もう眠いです』 『ことが済んだら起こしてよ。お尻に優しいパンツになってあげるからさ』 そんな気遣いはいらぬ!! とりあえずいつでも逃げ出せるように窓を開けよう。でも箒がない。いざという時のために蓄えてある魔力を使って空を飛ぶにしても、酔ってるからペース配分を間違えて墜落するかもしれない。 なにか、なにか方法はないだろうか……。 とか考えていたら、良司さんはラブホテルをあっさり通り過ぎた。ずんずんとさらなる山奥へ車を進めていく。「あ、あれ? えっと、どこまで行くんですか?」 俺の問いに良司さんがゆっくり口を開いた。「実は僕ね、今日会社を辞めたんだよ」 「へ? ああ、そうなんですか……」 そんな日に奢ってもらって悪かったか?「あ、お金のことは全然気にしなくていいよ。自分で言うのもなんだけど、貯金だけは凄いんだ僕」 ハハハと笑う良司さんの雰囲気がえらく妙だ。「それでね。辞めた理由なんだけど、セクハラだって若い部下に言われちゃって……全然心当たりがないんだけど、あれよあれよと話がすすんじゃって。実質、即日解雇ってわけなんだ」 「そ、それは大変でしたね」 それ以外に言葉が出てこない。「帰宅したら自分の人生なんだったんだろうって考えちゃって。結婚もせずにずっと仕事一筋……立ったまま動けなくなったんだ。そしたらみどり君から連絡があったんだよ。本当、今日の晩御飯は楽しかったなぁ。ありがとうね」 「いえ、こちらこそです。ありがとうございます」 正社員になったことのない俺には分からないが、きっとずっと勤めた職場を辞めるのって辛いんだろう。しかもその原因が訳の分からない濡れ衣なら尚更。「おわっ!?」 ガシャンッと金属を引き千切る音と、小さな衝撃を感じた。とたんにガタガタの山道になった。「みどり君。この先にね、大きな崖があるんだよ」 車の一気にスピ
ダメなタイプの浮遊感が腹の底から込み上げてくる。しかしそんなことはどうでも良い。「良司さんが死にたがってたなんて、俺嬉しいです!」「へ? ああ、嬉しいよ。みどり君!」 落下中だというのに良司さんが涙目になって微笑んでいる。 いやいや、嬉しさでいえば断然俺の方が上だ。ずっと今の良司さんみたいな死にたがってる人に会いたかったんだよ。神様ありがとーう! なんだなんだ~、死にたいなら早く言ってくれればよかったのに。「シラー、ベリー! 起きろ! やっと見つけたぞーー!」「ふがっ!?」『なに~? もう終わったの~?』 せっかくのチャンス。魔力をケチるのは止めだ。 俺は溜め込んでいた魔力を解放。落ちていく車のボディを突き破って空中へ躍り出た。もちろん、片手に良司さんを掴んでいる。車も反対の手で掴み崖の上へ投げる。大事故を防ぐなんて偉いぞ俺。 そして山肌から突き出た岩場に降りたって、唖然とする良司さんの肩に両手を置く。「死ぬならいいですよね? 俺がもらっていいよね?」「え……?」「返事はうん、もしくはイエスですよ!」「イ、イエス……」 きょとんとしている良司の額から血が出ている。手間が省けて良いことだ。「よしよし、今から儀式をするんで、絶対動かないでくださいね。絶対ですよ!」 まず俺の手首を噛み千切り血を用意する。そして良司さんの血と俺の血を混ぜる。次に良司さんと俺の周りにそれぞれやったら難しい魔法陣を描いていく。魔力を纏っているから昼間のように見えるし血も乾かない……よし、完成。「あ、あの、みどり君?」「そのままそのまま。リラックスですよリラ~ックス」 良司さんに深呼吸させて準備完了。「シラー、ベリー。全力でやるぞ」「ふぁ……はい……」『へいへい』 魔法陣に魔力を流し呪文を唱えていく。 俺の髪と目の色が元に戻る。シラーはペンギン姿に、ベリーはローブ姿になって魔力を注いでくれる。すると緑色の光が俺と良司さんを包んでいき、能天気なあのちんちくりんと親父の声が一瞬聞こえた。 徐々に魔法陣が浮かび始める。それはしだいに赤い木の根に変じると、良司さんの心臓を貫いてから俺に巻き付いた。「我が名は竜胆白緑。真名をアルイード・コルキス・ロシティヌア』「同じくシラー・ペルビアナ」「同じくクリソ・ベリル」 眠たそうなまま、シラーとベリ
良司さんを使い魔にした翌朝、俺はとても清々しい気分で目が覚めた。 良司さんは床に敷いた布団に寝かせて……あれ、いない。「まさか夢だったのか?」 いや、しかし布団は綺麗に畳まれている。きっと几帳面であろう良司さんがやったのだ。「無理心中されそうになったことなら現実ですよ」『お尻に手を出されなくて大人の階段を登れなかったことも現実だよ』 部屋に入ってきたシラーとベリーが、お握りを食べながら言う。 寝起きだから二人の冗談に突っ込めなかった。ていうか朝だと思ったらもう昼過ぎ。よっぽど疲れていたんだな。「……ん? なんか騒がしくないか?」 ドアの隙間をこじ開けるように、はしゃぐ子供の声が入ってくる。「そりゃそうですよ。黃壱(きいち)と靑弐(あおふた)と赤肆(あかし)と黑伍(くろいつ)が帰ってきてるんですから」『昨日紫と勝蔵がいなかったのは四人一家を迎えに行ってたからみたいだよ』 なん……だと?『そんな顔してどうしたの? お正月なんだから当然でしょ?』 おむすびを飲み込んだベリーが悪戯声でドアを開けていく。「待ちなさい! 逃げるなんて許しませんよ!」 くっ、すすきの箒を引っ付かんで逃走を図った俺を遮ってシラーが邪魔しやがる。 いかん……このままでは奴らが来てしまう。「なんかみどりの部屋から音が聞こえたぞ!」「あ! ドアが開いてるよ!」「いけいけ~!」 まずいまずいまずい!! ズドドドドドっという音が迫ってくる。小悪魔たちの跫音――「あ、逃がすか!」 シラーを掴み、ベッドに投げ捨て窓から飛び立とうとした瞬間、背後に飛び付かれた。「みんな早く!」 一人ならなんとかなりそうだったのに、次から次へと小悪魔たち、もとい甥っ子と姪っ子が飛びかかってくる。いくら子供とはいえ七人は無理だ……。「子供に好かれるなんていいことです。きっと白緑はイイ人なんでしょうね」『うんうん。じゃ、あとはイイ人に任せて僕らはお出かけしよ~』 あ、あいつら、俺を生け贄にしやがった。「あら何言ってるのよ」「シラーとベリーもまだやるべきことがあるだろ?」「ん!」「ん!!」「ん!!!」 小悪魔たちからやや遅れてやってきた大きな小悪魔五匹。「ペン?」『てへ?』 うおっ気色悪。 二人の可愛い子ぶった表情と仕草に鳥肌が立つ。だいたいペンてなんだ
土下座のかいあってか、良司さんは快くお金を貸してくれた。しかも「僕のものはもう全部白緑君のものなんだから返さなくていいよ」とまで。 が、それは駄目だ。借金をしておいてなんだが、この歳になればお金関係で友情や愛情、主従関係が崩壊していく様を何度も見ている。 使い魔との良好な関係は立派な一人前の魔女の条件でもあると俺は考えている。 とりあえず三万七千円をありがたく拝借して、小悪魔たちに千円ずつあげた。 手が震えてなかなか離せなかったけど、小学生組は大喜びしてくれたから良しとしよう。中学より上の連中は予想通りの態度だが、これも良しとしておくのが大人だ。 そして姉兄たちに軽く挨拶してから母の待つ、彼女の部屋……もとい魔女の部屋へ向かう。 奥座敷の地下にあるのだが、怪しげな掛け軸の裏や、隠し通路がありそうな床脇は無視。いったん振り返り欄間めがけてジャンプ―― するとあら不思議。あっという間に地下室の階段にたどり着きましたっと。「に、忍者屋敷って本当にあるんですね。ワクワクしてきました」 ついてきた良司さんが少し興奮している。 そうか。これ一般家庭にはない設備なのか。子供の頃から慣れ親しんだ俺には当たり前だった。あっちの世界ではもっと色んな仕掛けがあるし……。「忍者屋敷っていうよりは魔女の館って方がしっくりきますけどね」 階段を降りて、ちょっとした巨大迷路を抜け、罠を解除して合言葉を囁き、現れた行き止まりの壁に家族の紋章をかざしてようやく母の部屋の前に辿り着く。「か、かなり厳重なんですね」「法に触れる物やヤバいモノがわんさか保管してあるんでそれなりには……内緒ですよ?」 俺の言葉にごくりと喉を鳴らした良司さんだが、物凄く楽しそうだ。「母さん、入るよ」 ここで返事を待たずに入るのは厳禁。もしも、怪しげな召喚や薬の調合なんかしてたらえらい目にあう。「遅かったな。ほれ、紫が準備万端で待っとるぞ」 母ではなく父が出迎えてくれる。しかし、準備万端とはいったい……。 禍々しい素材置き場を通りすぎ、目をキラキラさせて首を動かす良司さんの手を引き、調合室もすぎて休憩室に行くと、微笑む母が椅子に座っていた。いつものようにかすかに流れているハープかなにかで奏でられる音楽がとても心地よい。「白緑ちゃんも、良司ちゃんも座って。大事な話があるの」 椅子が俺
さて、すったもんだあったが衣食住の衣と住は確保できた。 衣は元々ベリーが担当していたから新鮮味はないが、住となった良司さんの家はなかなかに居心地が良い。本当、使い魔様様である。 あとは同じく使い魔のシラーが食を担当してくれれば言うことなしなのだが、どうも困ったことにゴキブリ魔王がでしゃばってくる。「我は家事が得意なのだ。すべて任せるがよい」 などど言って、昼食を作ろうとキッチンに立とうとするのだ。 いくら見た目が長い触角を持ったイケメン魔王とはいえ元はゴキブリ。ばっちいの次元を遥かに越えている。例え何かの過ちで許したとしても、あっという間に正気に戻ってキッチン丸ごとP●ファイアーだ。「頼むから一切の家事に関わらないでくれ。むしろ必要な時は呼ぶから裏で好きにしててくれると嬉しい」「それではせっかく白緑の側にいられるという幸運の意味がないではないか。それに我は早く封印を解いて欲しいのだ」 言い終わると同時に目を閉じてキス待ち顔になるゴキブリ。すると俺の左耳をシュンシュンシュンッと風切り音が通りすぎていった。「うぎゃーー!!」 シラーが改造ネイルガンを発射したようだ。顔を押えてのたうち回るゴキブリには悪いが、あの辺りは徹底洗浄の後、滅菌処理してもらおう。 あ、良司さんが救急箱を取りに走った。なんてこった。良司さんはゴキブリにも優しいのか。どうせすぐ元に戻るんだから放っておけば良いのに。やはりできる大人は違うんだな。『はぁ。これは素晴らしい武器ですね』 俺の肩から飛び降り追撃の構えをとったシラーがうっとりした声を出した。あんな恍惚とした顔、この三十六年間で一度たりとも見たことがない。「ほどほどにしとけよ。後で仕返しされたって知らないぞ」「ケヒヒ」「え?」 今、シラーから聞いたことのない笑い声が聞こえたような気がする。『うわぁここにきてシラーの本性が……』「は?」『あ、ううん。なんでもないよ。あ~! もうぼくお腹ペコペコだよ! ねぇお
※ベリーからのお知らせ。 今回はちょっぴり刺激が強い内容だよ。心臓が弱い人は気を付けてね。 ---------------- 第13話 見習い魔女と黒き妖精 迫り来る数多のウィル・オ・ウィスプ。奴らはカサカサという特有の音を立てながらもうすぐそこまで来ている。 シラーやベリーに助けを求めようにも姿が見えない。良司さんもだ。主のピンチに駆け付けない使い魔になんの意味があろうか。あいつら三人はクソだ、ごみ屑だ。 しかもベリーがいないから私の格好はパジャマ。防御力云々とかいうレベルじゃない。「あああ、ウィル・オ・ウィスプの弱点はなんだっけ。久々過ぎて思い出せない!」 ウィル・オ・ウィスプは幽霊系の中でもわりと厄介な方で、触れると凄く冷たい。焼けるような冷たさと言えばいいだろうか。とにかくこんな数に襲われたらショック死かよくて凍死。 床に散らばる木の破片や枯れ葉を投げ付けて威嚇をするも、それらを取り込こまれて炎を大きくするだけだった。 この揺らめく青白い炎のせいか、時折景色がざわざわ動いて見えるのも気味が悪い。「水、そうだ水をぶっかけて――」 いやいや、ただの火の玉じゃないんだから水をかけても無意味だって習ったじゃない。大学で消火実習をしたけど二十年以上前だし、そもそもウィル・オ・ウィスプなんて現代じゃ滅多に出くわさないから対処法なんか綺麗さっぱり忘れてしまった。「ダ、ダメ! 全然思い出せない!」 四方八方から揺らめき寄るウィル・オ・ウィスプ。ぶつかる、と思ったその瞬間、勇ましい声が響いた。「止めないかお前たち!」 白馬に乗った王子様を思い起こさせる声、または勇者が颯爽と現れたかのような安堵感、あるいは威厳ある魔王の命令……。 ピタッと止まったウィル・オ・ウィスプたちが、どこか残念そうな雰囲気で声のした方向へ飛んで行く。 ウィル・オ・ウィスプが去ると、室内がずいぶん薄暗いのだと改めて
とりあえず良司さんには、この異様な城が真っ白な壁の庭と暖炉つき一戸建てに見えるらしい。 結婚を夢見る乙女か。 長年見習い魔女をやっている私でも、ここまでのTHE・いわくつき魔法物件、そうそうお目にかかったことはないんですけど。 私たちは真南の路地から真っ直ぐここへ来た。南西に小学校、北に高校、南東に中学校が建っていて、円形の道が城を囲んでいる。そして北西と北東方向にも直線の道が伸びている。 詳しいことは分からないけれど、何かしらの何かが施されているのは明らかだ。しかもさっきからキルジャッキルジャッって聞こえる。なにこれ、恐すぎる。こんなことなら乱子について来てもらえばよかった。「……ちなみにいくらだったんですか?」「え~っと八千万くらいだったかな。一括で払ったからもうちょっと安くしてくれたと思うけど」 はっせ――「白緑! 気をしっかり! は、八千万なんて……八千万なんて……ぐっ!?」『シラーも落ち着くんだ! 深呼吸してあっちの実家を思い出して! 八千万がなんだっていうんだよ! 父親のパンツ一枚より安いじゃないか!』 ああ、シラーとベリーの声が遠くでこだましている。 ぼんやり呻き声のする方をみれば、シラーが心臓を押さえて地面に転がっているし、パンツより安いとか言うベリーはショックで頭がおかしくなっちゃったみたいね。「……さん? 白緑さん?」 はっ! 八千万円の一括払いとかいうえげつない財力の前に、何処かへ行きかけていた。ただ不安を紛らわせようと聞いただけなのに、余計な負荷で心臓が押し潰されそうになってしまったじゃない。「と、とりあえず中に入りましょう」「うん。あれ? 入口はそっちじゃないよ」 おや、良司さんがなにもない壁に手をかけている。ああなるほど。普通の人にはあそこがドアなのか。「良司さん、そこは壁です。たぶん、本当の入口はこっち」 私が指差し
純朴そうな若者から腕を離して美女が駆け寄ってくる。相変わらずたわわな胸が奔放なことだ。 「白緑が男連れなんてどう風の吹き回しかしら。それにその荷物。あ、もしかして――」 きっとこいつ、これから失礼なことを言うわね。「処女卒業おめでとう!」 そう叫んでガシッと私の両手を掴んだこの変態痴女……げふんげふん、露出多めな服を着た爆乳女は魔女大の同期。「ちょっと止めてよ。良司さんとはそんなんじゃないわ」 疎らとはいえ人目もあるのに。大きな声で恥ずかしいことを言わないで欲しい。「白緑く――さんのお友達?」「え、ええ。この子は夜鶯胤乱子(やおういんらんこ)っていうの。魔女大の同期なのよ」 私の顔を見てきた良司さんに囁く。「あら? あららら? 白緑はこの人に魔女だって伝えてるの? じゃあやっぱりそういう仲なんじゃない」 これまであまりにも男っ気の無かった私だ。乱子の目が興味で輝いている。良司さんが挨拶をしようとしたのを遮ってグイグイくる。「ああもう! 本当は同期会で自慢するつもりだったのに……あのね乱子、良司さんは私の使い魔なの。それも月光の妖力に適性があるとっても凄い珍しいタイプのね」 予定とは違ったけれど、使い魔自慢ができて少し嬉しい。「ええ!? それはもう処女卒業どころじゃなわ! 予定変更、緊急招集――はダメね。やることあるのよ」 思い出したように放ったらかしていた純朴男子を見た乱子が、ごめんねと微笑んだ。 どうしていいか分からず、ドギマギしていた純朴男子は乱子に手招きされて、安心したように含羞んでから、小走りで寄ってきた。「あっ」 私の口から小さな驚きが溢れた。「は、はじめまして。俺、杉村っていいます」 少ししゃがれたような声で色黒。スポーツ刈りを放置してそのまま伸びたであろう短髪にやや幼さが垣間見える輪郭。さらに誠実さの中に燻る初々しい性欲も感じ取れる整った容姿は、乱子の拗れた癖にぶっ刺さる見た目だ。おまけに名前も杉村ときた。 二十六年前に乱子を乱子たらしめることとなった事件の原因と瓜二つ。 彼の存在を知ってから、いつもカントリーロードを口ずさみ不可能とされる二次元から錬成するホムンクルスの研究に没頭していった乱子だけど、遂に成功したのだろうか。「やだ、違うわよ白緑。杉村は正真正銘の人間よ」 ああそれは可哀想に。墓場鳥の
さ、寒い。 昼とはいえ真冬の野外。寂れたJRRの駅前は雪こそ降っていないけれど、凍てつく冬の風が駆け抜けていく。そういえば今年の正月は何十年かに一度の大寒波だとニュースで言っていた。 パジャマ姿の俺は既にヤバい眠気に襲われつつある。もちろん母に放り出された心理的な影響もあるだろう。現実逃避には睡眠が一番だから。しかしこうなると、いつも状況に合わせていい感じの服になってくれるベリーのありがたみがこれでもかと身に沁みる。 あれ、言ってしまえばハグだもん……。「凄い! 瞬間移動だ! 紫さんの魔法だよね!?」 良司さんは俺そっちのけではしゃいでいる。悪いがそんな珍しくもなんともないことはどうでもいい。とにかく寒い。一先ず良司さんは放置だ。 えっと、一緒に放り出されたスーツケースの中に何か防寒できるものがないかな。「うおっ!?」 スーツケースの中から音がする。ドンッ、ドンッと、まるで外に出せと言わんばかりの迫力……ええい、少し怖いが構うものか。 今にも寒さと悲しみにKO負けしそうな俺はスーツケースを開け放った。 と、同時に飛び出してきたのは――「くそが!! あんのジジイめ、なんてことしやがる!!」『うぅぅ、僕の体がちょっぴり燃えちゃったよぉ』 怒れるシラーとベリーだった。おお、神よ。これでこの凍てつく寒さともお別れできます。「あああああベリー! 会いたかった! 今すぐ暖かい服になってくれ! このままじゃ――」『やだ!! 白緑のせいでこうなったんだからね!! 見てよここ、勝蔵の息でこんなことになっちゃったんだよ!』 半泣きでポカポカ殴りかかってくるだけでベリーは暖かい服になってくれない。せめてローブのままでいいから羽織らせて欲しいが無理そうだ。「じゃ、じゃあシラー! 大きくなって俺を腹の下に入れてくれ!」「断る!! 私の腹の皮は卵や雛の為にあるんです! 白緑みたいな加齢臭漂うオッサンの為にあるわけじゃない!!」 か、加齢臭!!? 「お、俺が加齢臭なんてありえないだろ! 種族的特徴でいつでもふんわり香る良い匂いなんだ! 柔軟剤要らずで経済的だって褒められるのに! 撤回しろ!」「加齢臭は自分じゃ気付かないっていいますもんね!」 そ、そんな馬鹿な……掴みかかったシリーの反論に心が折れそうになる。「み、白緑君は加齢臭なんてしないよ。君の
土下座のかいあってか、良司さんは快くお金を貸してくれた。しかも「僕のものはもう全部白緑君のものなんだから返さなくていいよ」とまで。 が、それは駄目だ。借金をしておいてなんだが、この歳になればお金関係で友情や愛情、主従関係が崩壊していく様を何度も見ている。 使い魔との良好な関係は立派な一人前の魔女の条件でもあると俺は考えている。 とりあえず三万七千円をありがたく拝借して、小悪魔たちに千円ずつあげた。 手が震えてなかなか離せなかったけど、小学生組は大喜びしてくれたから良しとしよう。中学より上の連中は予想通りの態度だが、これも良しとしておくのが大人だ。 そして姉兄たちに軽く挨拶してから母の待つ、彼女の部屋……もとい魔女の部屋へ向かう。 奥座敷の地下にあるのだが、怪しげな掛け軸の裏や、隠し通路がありそうな床脇は無視。いったん振り返り欄間めがけてジャンプ―― するとあら不思議。あっという間に地下室の階段にたどり着きましたっと。「に、忍者屋敷って本当にあるんですね。ワクワクしてきました」 ついてきた良司さんが少し興奮している。 そうか。これ一般家庭にはない設備なのか。子供の頃から慣れ親しんだ俺には当たり前だった。あっちの世界ではもっと色んな仕掛けがあるし……。「忍者屋敷っていうよりは魔女の館って方がしっくりきますけどね」 階段を降りて、ちょっとした巨大迷路を抜け、罠を解除して合言葉を囁き、現れた行き止まりの壁に家族の紋章をかざしてようやく母の部屋の前に辿り着く。「か、かなり厳重なんですね」「法に触れる物やヤバいモノがわんさか保管してあるんでそれなりには……内緒ですよ?」 俺の言葉にごくりと喉を鳴らした良司さんだが、物凄く楽しそうだ。「母さん、入るよ」 ここで返事を待たずに入るのは厳禁。もしも、怪しげな召喚や薬の調合なんかしてたらえらい目にあう。「遅かったな。ほれ、紫が準備万端で待っとるぞ」 母ではなく父が出迎えてくれる。しかし、準備万端とはいったい……。 禍々しい素材置き場を通りすぎ、目をキラキラさせて首を動かす良司さんの手を引き、調合室もすぎて休憩室に行くと、微笑む母が椅子に座っていた。いつものようにかすかに流れているハープかなにかで奏でられる音楽がとても心地よい。「白緑ちゃんも、良司ちゃんも座って。大事な話があるの」 椅子が俺
良司さんを使い魔にした翌朝、俺はとても清々しい気分で目が覚めた。 良司さんは床に敷いた布団に寝かせて……あれ、いない。「まさか夢だったのか?」 いや、しかし布団は綺麗に畳まれている。きっと几帳面であろう良司さんがやったのだ。「無理心中されそうになったことなら現実ですよ」『お尻に手を出されなくて大人の階段を登れなかったことも現実だよ』 部屋に入ってきたシラーとベリーが、お握りを食べながら言う。 寝起きだから二人の冗談に突っ込めなかった。ていうか朝だと思ったらもう昼過ぎ。よっぽど疲れていたんだな。「……ん? なんか騒がしくないか?」 ドアの隙間をこじ開けるように、はしゃぐ子供の声が入ってくる。「そりゃそうですよ。黃壱(きいち)と靑弐(あおふた)と赤肆(あかし)と黑伍(くろいつ)が帰ってきてるんですから」『昨日紫と勝蔵がいなかったのは四人一家を迎えに行ってたからみたいだよ』 なん……だと?『そんな顔してどうしたの? お正月なんだから当然でしょ?』 おむすびを飲み込んだベリーが悪戯声でドアを開けていく。「待ちなさい! 逃げるなんて許しませんよ!」 くっ、すすきの箒を引っ付かんで逃走を図った俺を遮ってシラーが邪魔しやがる。 いかん……このままでは奴らが来てしまう。「なんかみどりの部屋から音が聞こえたぞ!」「あ! ドアが開いてるよ!」「いけいけ~!」 まずいまずいまずい!! ズドドドドドっという音が迫ってくる。小悪魔たちの跫音――「あ、逃がすか!」 シラーを掴み、ベッドに投げ捨て窓から飛び立とうとした瞬間、背後に飛び付かれた。「みんな早く!」 一人ならなんとかなりそうだったのに、次から次へと小悪魔たち、もとい甥っ子と姪っ子が飛びかかってくる。いくら子供とはいえ七人は無理だ……。「子供に好かれるなんていいことです。きっと白緑はイイ人なんでしょうね」『うんうん。じゃ、あとはイイ人に任せて僕らはお出かけしよ~』 あ、あいつら、俺を生け贄にしやがった。「あら何言ってるのよ」「シラーとベリーもまだやるべきことがあるだろ?」「ん!」「ん!!」「ん!!!」 小悪魔たちからやや遅れてやってきた大きな小悪魔五匹。「ペン?」『てへ?』 うおっ気色悪。 二人の可愛い子ぶった表情と仕草に鳥肌が立つ。だいたいペンてなんだ
ダメなタイプの浮遊感が腹の底から込み上げてくる。しかしそんなことはどうでも良い。「良司さんが死にたがってたなんて、俺嬉しいです!」「へ? ああ、嬉しいよ。みどり君!」 落下中だというのに良司さんが涙目になって微笑んでいる。 いやいや、嬉しさでいえば断然俺の方が上だ。ずっと今の良司さんみたいな死にたがってる人に会いたかったんだよ。神様ありがとーう! なんだなんだ~、死にたいなら早く言ってくれればよかったのに。「シラー、ベリー! 起きろ! やっと見つけたぞーー!」「ふがっ!?」『なに~? もう終わったの~?』 せっかくのチャンス。魔力をケチるのは止めだ。 俺は溜め込んでいた魔力を解放。落ちていく車のボディを突き破って空中へ躍り出た。もちろん、片手に良司さんを掴んでいる。車も反対の手で掴み崖の上へ投げる。大事故を防ぐなんて偉いぞ俺。 そして山肌から突き出た岩場に降りたって、唖然とする良司さんの肩に両手を置く。「死ぬならいいですよね? 俺がもらっていいよね?」「え……?」「返事はうん、もしくはイエスですよ!」「イ、イエス……」 きょとんとしている良司の額から血が出ている。手間が省けて良いことだ。「よしよし、今から儀式をするんで、絶対動かないでくださいね。絶対ですよ!」 まず俺の手首を噛み千切り血を用意する。そして良司さんの血と俺の血を混ぜる。次に良司さんと俺の周りにそれぞれやったら難しい魔法陣を描いていく。魔力を纏っているから昼間のように見えるし血も乾かない……よし、完成。「あ、あの、みどり君?」「そのままそのまま。リラックスですよリラ~ックス」 良司さんに深呼吸させて準備完了。「シラー、ベリー。全力でやるぞ」「ふぁ……はい……」『へいへい』 魔法陣に魔力を流し呪文を唱えていく。 俺の髪と目の色が元に戻る。シラーはペンギン姿に、ベリーはローブ姿になって魔力を注いでくれる。すると緑色の光が俺と良司さんを包んでいき、能天気なあのちんちくりんと親父の声が一瞬聞こえた。 徐々に魔法陣が浮かび始める。それはしだいに赤い木の根に変じると、良司さんの心臓を貫いてから俺に巻き付いた。「我が名は竜胆白緑。真名をアルイード・コルキス・ロシティヌア』「同じくシラー・ペルビアナ」「同じくクリソ・ベリル」 眠たそうなまま、シラーとベリ
どうしよう。 このままラブホテルであんなことや、こんなことをされてしまうんだろうか。『別にいいじゃないですか、尻穴の一つや二つ……』 『俺には一つしかないんだよ!』 『慣れると気持ちいいって話ですよ~』 『そういう問題じゃない!』 焦る俺と違って、シラーとベリーは満腹に脳ミソをやられちまったらしい。この状況を受け入れるなんて断固拒否だ。俺は美樹木の化身と結婚するって決めてるんだ。『あ~もう眠いです』 『ことが済んだら起こしてよ。お尻に優しいパンツになってあげるからさ』 そんな気遣いはいらぬ!! とりあえずいつでも逃げ出せるように窓を開けよう。でも箒がない。いざという時のために蓄えてある魔力を使って空を飛ぶにしても、酔ってるからペース配分を間違えて墜落するかもしれない。 なにか、なにか方法はないだろうか……。 とか考えていたら、良司さんはラブホテルをあっさり通り過ぎた。ずんずんとさらなる山奥へ車を進めていく。「あ、あれ? えっと、どこまで行くんですか?」 俺の問いに良司さんがゆっくり口を開いた。「実は僕ね、今日会社を辞めたんだよ」 「へ? ああ、そうなんですか……」 そんな日に奢ってもらって悪かったか?「あ、お金のことは全然気にしなくていいよ。自分で言うのもなんだけど、貯金だけは凄いんだ僕」 ハハハと笑う良司さんの雰囲気がえらく妙だ。「それでね。辞めた理由なんだけど、セクハラだって若い部下に言われちゃって……全然心当たりがないんだけど、あれよあれよと話がすすんじゃって。実質、即日解雇ってわけなんだ」 「そ、それは大変でしたね」 それ以外に言葉が出てこない。「帰宅したら自分の人生なんだったんだろうって考えちゃって。結婚もせずにずっと仕事一筋……立ったまま動けなくなったんだ。そしたらみどり君から連絡があったんだよ。本当、今日の晩御飯は楽しかったなぁ。ありがとうね」 「いえ、こちらこそです。ありがとうございます」 正社員になったことのない俺には分からないが、きっとずっと勤めた職場を辞めるのって辛いんだろう。しかもその原因が訳の分からない濡れ衣なら尚更。「おわっ!?」 ガシャンッと金属を引き千切る音と、小さな衝撃を感じた。とたんにガタガタの山道になった。「みどり君。この先にね、大きな崖があるんだよ」 車の一気にスピ